静御前生誕の地の石碑の写真
静御前生誕の地の石碑

静神社の写真
静神社

静の杜からの展望写真
静の杜からの展望

【位置図】

静神社・静の杜の位置図
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静神社・静の杜(静御前) (しずかじんじゃ・しずかのもり (しずかごぜん))

【京丹後七姫伝説 静御前】
網野町磯で禅師の娘として生まれたとされる静御前。父の死後、母とともに京都へ上り白拍子となりました。
その後、舞う姿を源義経に見そめられ、愛妾となりました。しかし義経は兄・頼朝に追われ、子どもも殺されてしまいます。
悲しみにくれ故郷の磯に戻った静御前は、二十余歳の若さでこの世を去りました。
義経への愛を貫いた静の気丈さ。それをはぐくんだ故郷・磯には、静御前をまつる静神社が悲恋の面影を残すかのようにひっそりとたたずんでいます。
また、周辺には静の庵跡に建つ静御前生誕の地の碑、義経が船を着けたといわれている入艘の浜と沖の飛び岩があります。

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磯砂山の写真
磯砂山

女池の写真
女池

乙女神社の写真
乙女神社

【位置図】

磯砂山・女池・乙女神社の位置図 YAHOO!地図へ
磯砂山
女 池
乙女神社

磯砂山・女池・乙女神社(羽衣天女) (いさなごさん・めいけ・おとめじんじゃ (はごろもてんにょ))

【京丹後七姫伝説 羽衣伝説】
昔、比治(ひじ)の山の真奈井で天女が水浴びをしていると、老夫婦に羽衣を隠され天に帰られなくなりました。
酒をつくり老夫婦と暮らしましたが、その後、家を追い出され、ほかの村に移り住みました。その胸中を伝える歌が「丹後国風土記」の逸文に残されています。
このほか、地元に伝承され、語り継がれてきたもう一つの羽衣伝説があります。
それは、天女と夫婦になった猟師の家系を継ぐという家があるというもので、天女の娘の1人がまつられているとされる乙女神社では、お参りをすると美女が授かると言われています。
また、天女が水浴びをしていたとされる女池は、磯砂山の中腹に位置し、混ぜると雨をもたらすと言われています。

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小町公園の写真
小町公園

小町ブロンズ像の写真
小町ブロンズ像

小町の墓の写真
小町の墓

【位置図】

小町公園の位置図
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小町公園(小野小町) (こまちこうえん (おののこまち))

【京丹後七姫伝説 小野小町】
平安時代を代表する六歌仙の1人で絶世の美女だったといわれている小野小町。
妙性寺のいわれを記した緑起には、晩年に都を離れ、天橋立をめざした小町が途中、大宮町五十河(いかが)の住人、上田甚兵衛と出合い五十河を訪れ、この地で亡くなったと記されています。
五十河には、小町の墓と伝えられる小町塚や、小町が開基したといわれる明性寺があり、一帯は小町公園として整備されています。  

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嶋児神社の写真
嶋児神社

福島の写真
福島

水江浦嶋子の写真
水江浦嶋子

【位置図】

嶋児神社の位置図
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嶋児神社・福島神社(浦島太郎・乙姫) (しまこじんじゃ・ふくしまじんじゃ(うらしまたろう・おとひめ))

【京丹後七姫伝説 乙姫】
網野町は、「丹後国風土記」に伝えられる浦島太郎伝説の地です。
浦島太郎は後世につけられた名前で、風土記では、水江浦嶋子(みずのえうらしまこ)となっており、この嶋子をまつる神社が網野町浅茂川の海岸に鎮座する嶋児神社です。
また、嶋児神社から左遠方に見える福島は、浦島太郎と乙姫がはじめて出会った場所といわれ、ここには乙姫をまつった福島神社があります。

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間人皇后・聖徳太子母子像の写真
間人皇后・聖徳太子母子像

【位置図】

間人皇后・聖徳太子母子像の位置図
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間人皇后・聖徳太子母子像(間人皇后) (はしうどこうごう・しょうとくたいしぼしぞう (はしうどこうごう))

【京丹後七姫伝説 間人皇后】
聖徳太子の母・間人(はしうど)皇后は大和政権の争乱を避け、今の丹後町間人(たいざ)に聖徳太子とともに身を寄せたと伝えられています。
手厚いもてなしへのお礼にと、この地を去る際、皇后は自らの名「間人」(はしうど)をこの地に贈りました。
村人たちは恐れ多いことから、皇后の退座にちなみ読み方を「たいざ」にしたとされています。

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細川ガラシャの絵図
細川ガラシャ

細川ガラシャ夫人の碑の写真
細川ガラシャ夫人の碑

【位置図】

細川ガラシャ夫人の碑の位置図
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細川ガラシャ夫人の碑(細川ガラシャ) (ほそかわがらしゃふじんのひ (ほそかわがらしゃ))

【京丹後七姫伝説 細川ガラシャ】
明智光秀の三女としてうまれた玉子(後のガラシャ)は細川忠興に嫁ぎました。
本能寺の変の後、玉子は弥栄町味土野(みどの)に幽閉され、侍女の1人からキリスト教の話を聞き、信仰に救いを求めるようになります。やがて洗礼を受け「ガラシャ」という名を授かりました。
ガラシャは心の平安を求めながら、この山深い味土野の地で戦国の最中をすごしたのでした。

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川上摩須郎女の和紙人形の写真
川上摩須郎女 和紙人形

 

川上摩須郎女 (かわかみのますのいらつめ)

【京丹後七姫伝説 川上摩須郎女】
往古、丹波の国王として君臨していた丹波道主命の妻。
同じ丹波国の豪族の娘として生まれ道主命の妻になり、一男三女をもうけ、その息女ヒバスヒメは垂仁天皇の后となり、景行天皇をはじめヤマト姫など四男一女をもうけました。
この一大勢力の遺跡が久美浜町須田伯耆谷(ほうきだに)に無数に存在しています。

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