弥栄町芋野の気張るファーマー(きょうたんご米気張るファーマー通信 Vol.17)

Vol.17 芋野郷赤米保存会(藤村 政良)(弥栄町芋野)

 赤米を栽培しているのは

 今回取り上げるのは、弥栄町芋野地区の芋野郷赤米保存会の代表である藤村 政良さん。

 藤村さんが作るお米は赤米といい、古くに芋野地区で栽培されていたお米である。その歴史は、平城宮に献上していた赤米につけていた荷札である木簡(※1)が平城京跡から出土していることから、奈良時代にさかのぼる。

 芋野地域での赤米の栽培は、地域全体に約22haある田んぼの中の約0.3haで行っている。

 ではどうして、藤村さんは今も赤米栽培を行っているのだろうか。

 

赤米の稲刈りを行う藤村さん

 古代米が弥栄町で復活したわけ

 赤米栽培は、弥栄町において、奈良時代からずっと続いてきたのだろうか。答えはノーであり、実は途絶えていた期間がある。

 では、どうして赤米は復活したのだろうか。

 それは、今から約55年前に、前述の木簡が出土したことが、弥栄町に住んでいたある一人の人生を変えたからである。

 その人は、郷土史の研究をしていた芦田 行雄さん。

 芦田さんは、木簡の出土をきっかけに、何とか弥栄町で赤米の栽培を復活させようと考えたが、弥栄町では種籾はすでに途絶えていた。

 今では田んぼアートなどで有名な赤米(古代米)だが、かつては古代米撲滅に向けて、政府による古代米廃止の動きが進められていた(※2)。当時、国内では3か所(岡山県総社市・長崎県対馬市・鹿児島県種子島)の神社においてのみ神事用に栽培が許されており、「日本三大赤米」と呼ばれた。

 そのことを知った芦田さんは、知り合いを辿って赤米の種籾を何とか譲り受けたが、農地を所有していなかったため、自宅の庭の一角にミニ田んぼを作り、赤米栽培を始めた。

 その赤米は無事に実り、その後、弥栄町和田野の1アールほどの田んぼで栽培を続けた。

 その後、芦田さんは、日本全国に約200人の生徒がいた「赤ごめ学校」の創設や赤米シンポジウムの開催など、精力的に全国各地で古代米推進活動を行ってきたが、高齢になってきたことと、「赤米をふるさと(原点)に戻すのが一番だ」という思いから、平成23年に芋野地区で農業をしていた藤村さんへと赤米栽培の継承が行われた。

 

赤米の種籾の継承を行う芦田さん(左)と引き継ぐ藤村さん(右)

 赤米をこれからどう守っていくのか

 藤村さんが引継ぎ、栽培を始めたことで、約1300年ぶりに芋野に赤米が帰ってきた。

 藤村さんは、「自分でできることをしよう」と芦田さんのように全国的な活動ではなく、芋野の地区で赤米を守るための活動に重点を置いた。その考えのもと設立したのが、芋野郷赤米保存会である。

 現在、芋野郷赤米保存会のメンバーは50代から80代までの役員6人と地区の若者たちで構成されており、イベントでの赤米PRを行ったり、小学校の学習の一環として赤米栽培実習に協力したりしている。子どもたちが秋に刈り取った赤米は、冬に丹後ばらずし(※3)となって学校で振舞われる。

 お赤飯の元になったとされる赤米が入ったばらずしは、お米がほんのり赤く色づいた美しい仕上がりとなる。

 藤村さんは、「子どもたちに芋野地域の歴史を知ってもらうこと、そして地域に対する愛着を持ってもらうためにも、これからも、赤米が永代絶えることのないように守っていきたい」と語る。

 一人の郷土史家が蘇らせた古代米に対する思いは、藤村さんが受け継ぎ、そしてこれからも途絶えることなく芋野地域で守られていくだろう。

 

赤米保存会のメンバーと地区の若者たちと一緒に。背景は稲木干しをしている赤米

 

【脚注】

※1 出土した木簡には「丹後国竹野郡芋野郷婇部古与曾赤舂米五斗」と記載されている。「婇部古与曾」は人名。

※2 通常の水田ほ場に赤米が混入すると米の等級が下がってしまうため。

※3 ちらし寿司のこと。丹後では、サバの缶詰を醤油で甘辛く煮て作ったそぼろと錦糸卵や紅ショウガ、醤油で甘辛く煮たしいたけを寿司の上に具として乗せる。

(丹後ばらずしのレシピはこちら(内部リンク)

 

(気張るファーマー通信編集部 尾崎)

取材日:令和2年11月30日

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更新日:2021年02月01日